歴史⋯当店はバルセロナで一番人気のある遊歩道、そして(年統計によると)世界で一番人通りの多いであろう道(遊歩道)に位置します。
“ランブラ”(水路、アラビア語Ramlaから来た言葉)は、もともと乾期に通り道として使われた、季節により激流の通った川でした。これに沿って市の第二城壁(十三世紀)が作られました。ここに現在当店が位置すると考えられます。
十四、五世紀の市の拡張に伴い、第二城壁は壊され、ランブラは埋められました(雨水を運ぶ水路が作られたため)。ランブラは遊歩道、“新しい都市の軸”となり、当時の最も代表的な建築物(修道院と貴族の家)がその周りに建てられました。十六世紀には初めて木が遊歩道に植えられました。十七、八世紀、ブルジョワがそれまで貴族や聖職者のものであった上流階級を次第に占めて行きます。修道院は徐々にその姿を消し、その代わりにルネッサンス様式の豪邸が建てられます。十八世紀の終わりには、ランブラは、銀行、街灯、花屋や小鳥の小さい行商市場のある、魅力溢れた遊歩道に変わりました(1906年の写真2、1946年の写真3)。
現在の店の位置する場所で、十八世紀末、バルセロナ地域の村々やサラゴサ、マドリッド等へ向かう馬車の出発地点に当たる“酒場兼宿屋”として飲食業務が始められました(写真1)。
鉄道の到来、路面電車の普及、1837年の今日のリセウ劇場の出現により、その業務内容は改められ、十九世紀半ばに、当時とても流行った“チョコラテリーア”に変わります。ウィーン様式の内部、古典的カットのガラスで装飾され、打ち出し細工が施された典型的な木の壁。唯一当店のみに存在する当時の鏡のコレクションと、現在の壁の下にある装飾の形跡が保存されています。
数年後、“ラ・マヨルキーナ”という呼び名で知られる“カフェ・レストラン”になります。バルセロナの最も優雅な場所の一つで、貴族やブルジョワ達が足繁く通う所でした。
1928年末、現在の所有者の先祖が建物を購入し、当時の傾向を追ったモデルニスモ様式、しかし、新古典主義のニュアンスを多く取り入れたものに改築致しました。1929年2月開店。その時から、el Cafède l'Òperaは、所有者の生存中、市民戦争の間も店を閉めませんでした。アントニ・デ・モラガスより修復され、今日は市の歴史的文化財の一つとなっております(写真4〜9、現在の店)。
El Cafè del'Òperaの真の歴史はその象徴的な古い建物にあるのではございません。貴方のような御客様方が
日々、何世代もの間に、バルセロナの社会・政治的生活の1ページをお書きになりました。アルフォンソ十三世からアナーキスト、政治家から労働組合員、知識人からボヘミアン、画家、作家、旅回りの喜劇一座、音楽家、歌手等も。一言で申し上げるならば様々な国と文化の方々。その全てが、三冊のサイン本とたくさんの逸話の中に収まっています。